
編み物好きおばあちゃんの配色ですね。
最近ふと思い出したことがあった。
私は今の夫と結婚するはるか昔、東北出身の人と付き合っていました。
その人とは東京で知り合って、付き合うことになったのだけれど、これはその人のご両親に挨拶をするために東北の旅行に2人で出かけた時の話です。
まず地元に近い大きい街の駅に着いた瞬間から彼の方に、少し方言が出始めたのには気がついていたのだけれど、彼の実家に着いたら、もうそこからは何一つ聞き取ることができなくなってしまったのでした。
なんの断りもなくイナゴの佃煮が御膳に並んだことよりも遥かに大きな衝撃でした。
その彼は、段何気ない顔で私の前や職場では振る舞ってきたけれど、本当はこんなに伸びやかに話したりしたかったんじゃないかな、と少し後ろめたいと気持ちになったというか、労ってあげたい気持ちになったというか。まだ高校卒業したてだった私には、処理しきれない感情だったのを覚えています。
今は海外に住んでたぶん私が悲しい気持ちになったり、憤ったりする事のほとんどは言語が関わっていて、投げ出したい気持ちになることもあるのだけれど、そういう時は、あの時の東北の農村での一コマを思い出すのです。
言葉は心を超えないというのは本当だと思うけれど、言葉を丁寧に考える事は生きる力になると。言葉は文化だと思う。不倫よりずっと文化だと思う。
この時の経験があるからわたしは数年後、デンマークに嫁いで、デンマーク人しかいないクリスマスパーティーに数日滞在したりしても割と平気だったのかもしれないとさえ思ってしまうのです。
10代の無敵の時代に、こういうどうしようもない言語の壁にぶち当たったのが功を奏したのかもしれないと今では思っています。
